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養蚕業の名残!子檀嶺岳900m付近にある巨大な村松の風穴

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うみのなかです。

この時期になると果実をよく見るようになるので、何か仕込みたいなあと考えています。梅、新生姜、スグリなどなど、お酒にするか、シロップにするか、はたまたジャムか、楽しみですね!

以前も風穴について書いたのですが、今回は青木村の村松地区にある巨大な風穴について書きました。養蚕業が盛んな時の名残であり、夏場に行くと瞬間的にクーラーの効いた部屋に入ったと思うほど涼しいんです。

村松の風穴について

子檀嶺岳の登山道「村松西洞コース」入り口から登山道は左に曲がるのですが、直進して道なりに進むと標高900m付近に巨大な風穴があります。子檀嶺岳(1223m)は堆積岩の中にマグマが岩床状に貫入してできた地層が地殻変動により隆起し現れた山です。砂岩や泥岩の地層で覆われていますが、山麓には玢岩(ひんがん)が崩落して堆積しています。この岩石が洞窟状になり冷風穴になっています。

明治政府は養蚕立国の国策を取っていましたが、当時長野県は全国一の養蚕県であり、蚕の餌になる桑の栽培も適していたようです。青木村も桑に適した畑地が多くあり、養蚕業に加え、蚕種業を営む養蚕家が当時は多かったようで、今でも村内には低い天井の古い家屋が多くあるため、当時の様子を伺うことができます。

そもそも何で蚕に風穴なの?となりますが...これは蚕種を放っておくと、一度に孵化してしまうので、桑の生育に合わせた適期に飼育を開始できるように、涼風が吹き出す自然の恵みを氷室として利用し、蚕種の保存をしていたためです。

青木風穴株式会社について

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大正7年に沓掛伴吉他6人は村松区の総代宛に蚕種貯蔵庫を新設するために踏査と借用について申請書を提出して、大正8年に蚕種冷蔵の青木風穴株式会社が設立されました。事務所は増田商店(現在は入奈良本地区にあるのですがその商店かは不明)の裏側を一部借用していたようです。

そしてできた風穴は間口が四間三尺(8.1m)、奥行が九間三尺(17.1m)、深さは二間三尺(4.5m)、蚕種の種紙の冷蔵枚数は70万枚でした。温度は2月(-2.2)、4月から6月中旬(1.1~1.7)、8月上旬(2.2~2.8)、9月(4.4)とかなり涼しいことが分かります。むしろ寒いですね。また10度くらいの特設部屋もあったそうです。石垣の積み石は現地調達、木材などは地元の青年会が背負って運び上げたとのことです。また、宝永3年(1706)の差出帳には養蚕が営まれていたことが記入されていて、その歴史が古いことが分かります。風穴から100mほど下ったところに桑園が2haほど栽培されていたようです。

繁忙期は自転車を利用して得意先を回り、上田や塩尻方面まで蚕種を集めるときは荷車を引いて上田橋を渡っていったそうです。また当時、塩尻方面に行くには渡し船がありましたが、大切な蚕種であるため水難を恐れて禁止されていたとのことです。山道は背負子で運搬していました。

昭和7年には絹糸価格の大暴落により、不況に見舞われましたが、経営者と責任者が代わり、何とか経営を継続しました。しかし平坦地に大型の冷蔵庫が作られたことにより、山奥の風穴は役目を終え、昭和14年に惜しまれつつも解散したそうです。

まとめ

絹糸の大暴落により養蚕業を諦め、家業も時代とともに変化していったことは想像できますが、このように当時を資料などを読んで知るほど、そこに至る労力と力強さを感じることができます。今でも名残はあり、栄えていたことは事実なので、余計に守るべきものと守りたいものとを意識するようになりました。

ではまた!